新たな視点からの考察

日本帝国海軍連合艦隊壊滅の道程

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特別大演習のため美保湾に集結した連合艦隊の艨艟63隻 (昭和2年8月24日)

日本帝国海軍連合艦隊壊滅の研究論文

完結編

    日本帝国海軍連合艦隊の壊滅について現今においてもなお引き続き多くの論説が発表されている。筆者は防衛庁技術研究所公文書館、国立公文書館、宮内庁書陵部総務課公文書館等の古文書を含む多くの新たに発見された記録を精査し、新たな視点で連合艦隊壊滅の道程を論述し、ここに発表するものである。

表題

日本国鳥取県境港市の台場公園に聳える白亜の塔、それは帝国海軍連合艦隊壊滅の原点(シンボル)なのだ。

 

 

 

 

 

 

演習の概要

昭和2年(1927年)8月24日、美保湾に集結した連合艦隊63隻は同日深夜、実戦の様相を遥かに超えた過酷な演習計画により、敵側の主力艦隊に対し、軽巡洋艦および駆逐艦による夜間、無灯火、高速接近、雷撃、退避行動を実施した。

    この行動中、軽巡洋艦、「じんつう」が二等駆逐艦 「わらび」に激突。わらびは爆発沈没、数分後にはまた軽巡洋艦「なか」がわらびに追従する二等駆逐艦「あし」の艦尾に衝突してこれを切断する二重衝突事故が起こった。

    この二重衝突事故の犠牲者は119名、これは海軍10大事件中の最大のものである。

​ この事故の原因について徹底した調査がなされ、軍法会議で責任の所在が論告された。

 原因とされたものは次の4つである。

 1.実戦の様相を超える常軌を逸した過酷な演習計画による

 2.実装試験段階で装備されたレーダーの使用禁止

 3.演習開始直前に、第二水雷戦隊の26,27駆逐隊を充分な事前訓練および調整なしに第一水雷戦隊に急遽配置変したこと

 4.砲撃の代わりに探照灯を使用したが、その直接照射による幻惑の対策をとらなかったこと

連合艦隊司令長官、加藤寛治海軍大将に

このような過酷な演習を実施させた理由

 

 

 当時の海軍軍令部長、伏見宮博恭王殿下、また生涯元帥の東郷平八郎大将は共にワシントン軍縮条約に反対する艦隊派で、連合艦隊司令長官の加藤寛治大将も艦隊派の有力なメンバ-であり、主力艦決戦の教条主義、決戦前の敵側戦艦の数を減じる漸減方策(ドクトリン)を強く信奉し、訓練、演習により兵員個々の戦力を高めること以外に勝利の道はないと強い信念にかられ、この本州一周の大演習計画を策定したのであった。機雷敷設艦「常盤」の爆発事故後も演習を中止せず、美保関沖事件後も演習を継続した。

 人命軽視を伴う精神至上主義の発露である

精神至上主義

 当時の日本の状況は、石油、天然ゴム、ポーキサイド等軍事に不可欠な資源を輸入に仰いでおり、また当時の日本の技術開発力および産業、工業基盤は劣弱であった。強大な敵側に対して対処する唯一の手段は周到綿密な訓練演習を反復実施して戦技のレベルを極限まで高める外なかったのだ。

 週間スケジュールにおける訓練の日程は土日の休養日はなく、月月火水木金金の過酷なものであった。 国民は海軍を信頼しこの猛訓練を支援、声援した。

 

 日支事変の開始後の1930年代には次のような標語が広く国民に浸透した。

「富国強兵」、「一億一心」、「八紘一宇」、「聖戦完遂」、「一死報国」、「撃てし止まん」、「進め一億火の玉だ」。 新聞ラジオは一斉にこれを宣伝した。

 更に、暴風雨の多い日本では風に対する恐れから、神の威徳に従わないと神風で罰せられるという信仰に基づく「神風」を念じ信ずる気風が国民一般の心底にあった。また古来、万葉集以降、言葉の持つ霊力を恐れる言霊信仰も広く根づいていた。精神至上主義はこのような深層基盤に基づくものであった。

 大東亜戦争における太平洋戦域では、21回に及ぶ海戦での日本側の勝敗は八勝(山本五十六大将)、七敗(古賀峰一大将、豊田副武大将、小沢治三郎中将)、六引分け(山本五十六大将)だった。

 

 

大東亜戦争間の連合艦隊司令

山本五十六大将(1941年(昭和16年)8月11日)

 古賀峯一大将(1943年(昭和18年)4月21日- 1944年3月31日

豊田副武大将(1944年(昭和19年))5月3日-1945年5月29日)

小沢治三郎中将(1945年(昭和20年)5月29日-1945年10月10日)

 

 注:海軍甲事件により山本五十六長官が戦死した際には、近藤信竹第二艦隊司令長官が後任の古賀峯一長官着任まで連合艦隊の指揮を代行した。海軍乙事件で古賀峯一長官が殉職した際には、高須四郎南西方面艦隊司令長官が後任の豊田副武長官着任まで連合艦隊の指揮を代行した。

 海軍軍令部長等首脳部は、態勢挽回を図るための人事発令に大わらわだったことが推定される。

 

 制空権の喪失に加え、近接信管、アクティブ・ソナー、高性能レーダ(高度測定レーダーとの組合せ、特にグランドクラッターの除去、移動目標表示など改良を重ねたスコープ機能)により夜間近接攻撃が不可能となり、対応する新戦略を樹立出来ずにひたすら防戦にまわり、なおも戦争を継続する手立ては精神至上主義しかなく、特別攻撃、即ち、死を前提とした自殺的攻撃しかなかった。

沖縄水上特攻

 1945年、米軍の沖縄上陸作戦に呼応して、連合艦隊司令部は「天一号作戦」を発動した。出撃に当たり連合艦隊司令部司令長官は次の訓令を全軍に発した。

 

 

「帝国海軍部隊は陸軍と協力、空海陸の全力を挙げて沖縄島周辺の敵艦船に対する総攻撃を決行せんとする。皇国の興廃は此の一挙にあり、茲に海上特別攻撃隊を編成して壮烈無比の突入作戦を命じたのは帝国海軍力をこの一戦に結集し、光輝ある帝国海軍海上部隊の伝統を発揚すると共にその光栄を後世に伝えんとするに外ならず、各隊はその特攻隊たると否とを問わず愈々終始奮戦、敵艦隊を随所に殲滅し以って皇国無窮の礎を確立すべし」

 

 

 沖縄水上特攻 (菊水作戦)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「戦艦大和」 随伴艦艇(軽巡1.駆逐艦8)

 

南冥に散り、大義を残す  

 

 その行きつくところ、戦局の終盤において人間爆弾(桜花)、人間魚雷(回天)、水上特攻艇(震洋)、人間機雷(伏龍)に至り、本土決戦、一億総特攻の標榜の下で 連合艦隊は世界の海戦史上稀有な様相で壊滅した。

  連合艦隊は緒戦の連戦連勝の栄光の座から悲哀絶望の奈落の道を辿ったのだ。

 

 

「菊水作戦」の実態

 

第一号作戦 4月6日-9日

  海軍機 391機、陸軍機133機 (戦艦「大和」の沖縄水上特攻は4月7日)

第二号作戦 4月11日、12日

  海軍機354機  陸軍機139機

(爆戦32機の1機が戦艦ミズリーに突入、後部右甲板に軽微な損傷を与えた。ミズリー艦長ウイリアム・キャラバン大佐は「激しい対空砲火をかいくぐってここまで達したパイロットの勇気と技量は同じ軍人とし賞賛に値する」と述、甲板上に散乱した遺体を水葬に付している。

 

第三号作戦 4月26日  海軍機415機  陸軍機92機

第四号作戦 海軍機587機

第五号策戦 (陸軍第32軍の総攻撃に呼応)

第六号作戦 5月11日  海軍機345機  陸軍機136機

第七号作戦 5月24日  海軍機387機  陸軍機147機

第八号作戦 5月27日  海軍機217機  陸軍機71機

第9号作戦 6月7日  海軍機367機  陸軍機71機

第10号作戦 6月21日 海軍機271機  

 

総計 海軍機2.200機 陸軍機700機

 

戦果は撃沈27隻(全て小型艦艇および輸送船、上陸用舟艇等)、損傷368隻(戦艦。空母を含む)。                         

米側記録資料による。

 

 

 最終段階において、海軍は多数の残存ゼロ式水上偵察機、ゼロ式艦載観測機に250キロ爆弾を括りつけて発進させ、更に偵察要員の機上作業練習機「白菊」や初級練習機「赤トンボ」まで特攻に駆り出した。練習機は重い250キロ爆弾を抱えてふらふらしながら飛行し、夜間は待ち受けている敵機 (レーダー装備のP-61ブラックウィドウBlack Widow「黒衣の未亡人 」の餌食にされた。

注;

オペレーショナル・リサーチ(operational research、略称:ORは、数学的・統計的モデル、アルゴリズムの利用などによって、さまざまな計画に際して最も効率的になるよう決定する科学的技法である)の根拠要素である戦果確認について述べる。

「菊水作戦」実施の初期段階では護衛戦闘が戦果確認を併せ行っていたが、制空権の喪失で、次第に航空援護なしの特攻になり、最終段階では重量軽減のため無線機類を下ろして発進させ、突入信号の受信も不可能な状態、状況判断なしのまま作戦を継続した。

したがって戦果の確認は戦後に米側記録資料のみで判断するしかない状態である。

 約3.000機に及ぶ攻撃に対してその戦果は過小と言わざるを得ないが、米軍将兵に与えた心理的な影響効果は大きなものがあった。

 

 1945年8月6日午前8時15分、ウラン238型原子爆弾が広島市に投下された。人口35万人中16万6千人人が死亡。大本営報道部はこれを“特殊爆弾”と発表した。

 同年8月9日午前11時02分、プルトニューム239型原子爆弾(広島の二倍の威力を持つ)が長崎市に投下された、人口24万人中8万人が死亡。

 1945年8月9日、ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄して参戦。満州国、樺太、千島列島に侵攻。

同年8月10日、日本政府はポッタム宣言を公式受諾。

同年8月14日、航空艦隊を含む連合艦隊を統括する海軍総隊司令長官、小沢治三郎中将から「対ソおよび対米積極攻撃中止」の命令が発せられた。

 多くの将兵は「寝耳に水」として受取り驚愕、失望、混乱に陥った。厚木航空隊のように戦闘継続を唱える部隊もあったが、数日後には天皇陛下のラジオ放送の趣旨に従って、粛々と部隊、基地を後にして復員した(故郷に戻った)。

 

 筆者が所属する大村海軍航空隊では、激しい米軍の大空襲、地上攻撃で廃墟になった基地の実態を知っているので、交戦停止、武装解除の命に服した。

 筆者は夜間戦闘機「月光」の機上電信員として、残存機のプロペラの取外し作業および無線機、20ミリ機関の弾倉の除去作業らに従事した。

帝国海軍の残存艦艇

 

 各軍港において多くの水上艦艇が防空砲台代用艦となったが、7月から激しさを増した米軍機の戦爆連合の襲撃により戦艦以下、重巡、軽巡、空母、駆逐艦、潜水艦、輸送艦、水雷艇、駆潜艇、掃海艇」機雷敷設艦、特務艇など殆どが壊滅的な損害をうけた。

 残存艦艇総計523隻のうち健在なものは407隻であった。

戦艦、重順、は一隻も残らず、唯一健在な空母「鳳翻」は旧式小型艦で実用性はない。僅かに、軽巡「酒匂」と駆逐艦30隻、潜水艦54隻のみが戦闘可能な勢力であったが、これまた燃料枯渇で出動不可能であった。連合艦隊の終末の姿である。

小沢海軍総司令部長官は一部の駆逐艦をもって海上挺進部隊を編成した。

その編成は次の通りである。

指揮官;第31戦隊司令官、松本毅少将

 

旗艦、秋月型駆逐艦「花月」

第41駆逐隊(冬月、夏月)

第43駆逐隊(宵月、櫃、竹, 槙、桐、葛、椎)

第52駆逐隊(杉、樫、楓、梨、萩、樺)

北上(重雷装艦、「回天」搭載)、波風「(回転)搭載)

 

以上、軽巡1、防空駆逐艦4、通常型駆逐艦13隻の合計18隻である。二個水雷戦隊分に相当する。しかし、燃料欠乏のため統一訓練を行うことさえ出来ず、呉あるいは柳井付近の偽装泊地に係留されたまま敗戦を迎えた。

残存航空機

 

各種戦闘機 1851機

各種練習機 3772機

艦上攻撃機、同爆撃機 1330機

各種偵察機、441機

 

  合計:7394機  

 

 特攻用には使用可能だが、パイロット不足と燃料枯渇のため殆どが稼働不能の状態で敗戦を向えた。

 緒戦に輝かしい功績を収めた連合艦隊航空戦力の終焉の姿である。

 

 

付記;​チェスター・ニミッツ元帥の小沢評

 「勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だというのは、ジャーナリズムの評価にすぎない。指揮官の成果は、むしろ、彼が持つ可能性にある。敗将といえども、彼に可能性が認められる限り名将である。

 小沢提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている。おそらく部下は、彼の下で働くのを喜んだにちがいない」と評価したと言う。

2.米海軍多用途駆逐艦「クッシング」との出会い  

 1999年10月20-22、米国海軍7艦隊所属の大型多用途駆逐艦「クッシング」(9.700頓)が境港に入港した。

 これは北朝鮮が日本海に向けた最初のミサイル発射に対応し、その監視、警戒任務のため派遣された「クッシング」が任務終了で乗員の休養および境港に対する親善のための寄港であった。

 筆者は海軍OBの団体、防衛協力団体「鳥取県西部海友会」会長として表敬乗艦した。

 海上自衛隊舞鶴地方総監部からは管理部長、境港市役所からは梅谷陽治外事顧問が乗艦された。

 梅谷外事顧問はクッシングの寄港間、市民との親善プログラムについて説明され、 筆者は艦長サイモンズ中佐に慰霊塔の見学をすすめた。丁度、海友会創立20周年に当たり、美保関沖事件の艦艇衝突配置図の石版を慰霊塔に奉納し、塔の基部構造の局舎側壁に埋め込んだので説明に便利と考えたからである。

 見学には艦長サイモンズ中佐のほか在大阪米国総領事館のロバート・ヨルダン総領事、天野到政治、経済専門官も同行された。

 筆者は帝国海軍10大事件中最大の犠牲者を出した美保瀬沖事件の全貌を説明した。サイモンズ艦長は「なぜこのような無謀な演習を実施したのか?」と質問された。筆者は「ワシントン条約の軍縮会議の結果、主力艦の保有率、米10;英10:日6では到底戦にならないと言う海軍軍令部の主張の下、艦隊決戦主義、決戦前主として駆逐艦からなる水雷戦隊の夜間雷撃により敵側の主力艦の数を減じる漸減方策をドクトリンと定め、実戦の様相を超えるような厳しい訓練、演習を反復実施するしか無いとの判断に達したのだ」と補足した。

 艦長は更に、連合艦隊加藤寛治大将の処分について尋ね、筆者は「軍法会議に召喚されたが特に処分を受ける事無く、海軍合同葬儀後、演習を続けた。そして翌年海軍軍令部次長の職に転じた」と答えた。

 艦長は言葉なく、塔を見上げて呟いた「これは歴史的遺物である、記念碑だ」と。そして明日午後、多くの乗組員に見学させるので説明してもらえるか」と尋ね、筆者は「喜んで」と応じた。

3. この塔の基部の局舎の壁面に京都帝国大学文学部三浦博士の追悼碑文の石版が埋め込まれている。その追悼文には「二度とこの種の事故を起こさないよう諸種の改善策を行うことを決した。英霊よもって瞑すべし。」とあり、また追悼文の末尾には「この地を卜して碑を建て長しえに英霊を慰む」とある。

4. 艦艇相互の衝突防止についてどのような対策が採用されたのか、多くの古文書および文献等を精査した結果、具体的な対策は行われない事が判明した。

当時の技術で実施可能な音波を用いる障害物検知の基礎的手段も考えれなかったようだ。今日の時点でそれを批判することはできない。

 

 以後も友軍の艦艇相互の艦艇の衝突事故は少なくなく、その数例を下記に述べる。

(1)1904年5月15日、「吉野」と「春日」衝突

  濃霧のため視界不良

(2)1930年10月10日、特別大演習

 軽巡洋艦「北上」と「阿武隈」衝突

(3)1934年6月29日、済州島南方での夜間対潜訓練

 駆逐艦「雷」と「深雪」が衝突

(4)1943年1月21日、セレベス島南東部のケンダリ 攻略の上陸作戦支援のため急行中、雨で視界不良の下、駆逐艦「初雪」が軽巡洋艦「長良」の右舷中央部に21ノットで激突、「初雪」は前部砲塔前が破壊

(5)1944年10月20~25日、レイテ沖海戦、乱戦の中重巡洋艦「那智」と「最上」が衝突

5.

 この白亜の塔のもともとの墓標銘は「忠魂碑」であった。

 大東亜戦争の敗戦後、忠魂碑の銘版は剥ぎ取られ、10年余にわたり無名の塔になっていた。それは日本占領連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥の意図を忖度して行われたのだ。

 日本人はお上の御意向に従う習慣が身についている。戦国時代は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康がお上だった。明治以降は天皇がお上であった、敗戦から7年半の連合軍占領時代はマッカーサーがお上であった。

 呉市の海軍墓地内にある「葦、蕨殉職者忠魂碑」の墓標銘は現在も当時のまま維持されている。全国には戦死者を祀った多くの忠魂碑がそのまま残されている。

 境港市の台場公園の白亜の塔の墓標銘が剥奪された経緯は今日の時点でとかく批判する事は出来ない。この事は歴史研究者の常識である。

 戦後、この無名の塔の周辺は荒れるに任せたままだったと云う。

 

 昭和22年、天皇陛下が山陰地方の行幸の際にこの無名の塔を参拝された。写真家、植田正司がそのお姿を撮影し、記録として残されている。

 昭和20年代後半から、境港出身の海軍復員軍人6名が毎年5月27日の海軍記念日にしめやかな追悼参拝を行い、山田上等兵曹の経文を読み、香を焚いて殉職者を慰霊した記録が残されている。

 昭和32年、境港市主催の30周忌慰霊祭が行われた。その祭に新たな墓標銘「慰霊塔」が塔に付けられた。その原書は防衛庁統合幕僚会議議長の林敬三陸将が墨書したものである。 境港市はこの30周忌と50周忌、および80周忌慰霊祭を執り行った。

 80周忌の慰霊祭には、要請により鳥取県西部海会が「追悼記念展示会」を実施した。

 

 昭和54年5月27日、鳥取県西部地区の海軍軍人会を統合した「鳥取県西部海友会」が発足した。

 「鳥取県西部海友会」は30年間にわたり慰霊祭を継続実施した。 

平成20年、会員の老齢化により、新たに発足した「美保関沖事件殉職者顕彰護持会」が伝統行事を継承し、毎年8月24日の命日に追悼参拝式を行っており年々、参列者数が増大している。特に中学生ボランティアの参加が毎年増加いている。

 私共、慰霊塔を守る多くの者は、この白亜の塔の墓標銘を本来の姿「忠魂碑」に復元し、そしてこの塔を国指定の文化財として広く世界に紹介し、日本の文化と歴史を学ぶ多くの客人の訪れる日を夢見ている。

 現在も引き続き美保関沖事件に関する資料、文献等の発見に努めており、それらから導き出された貴重な教訓を次世代を担う青少年達に伝承するための各種の文化活動を行っている。

 

 令和3年の5月15日(海軍記念日)に新元号下における一大イベン「美保関沖事件回想大パノラマ展示会」を一カ月にわたり実施すべく準備を進めています。

 その内容は、各種記録、資料、写真、画像60枚のパネル展示、美保湾に集結した聯合艦隊63隻を当時の姿で再現したモデル艦艇のパノラマ展示、防衛省技術研究所公文書館、国立公文書館、宮内庁書陵部総務課公文書室等で閲覧した古文書、記録資料を含む多くの資料の展示、およびビデオ公開など多岐にわたるものであります。

 

 日本の歴史、文化に関心ある世界の多くの方々のおいでをお待ちしております。

 

令和元年5月2日

著者: 松下 薫

校閲者:梅谷陽治

発行者:美保関沖事件殉職者慰霊塔護持賛助会

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