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昭和初期の国際情勢

 第一次世界大戦後、世界に誇る海洋国イギリスは、ドイツとの激戦に消耗した海軍力の補強に務め、また、アメリカは海軍法成立後「世界一の海軍」を目指した大建造艦計画を進めました。

 日本は米英より劣る海軍力のアップのため「八八艦隊計画」と呼ばれた建艦計画を立てますが、海軍予算は1916年(大正5年)度を境に陸軍予算を上回り、1921年(大正10年)には国家予算の32.5%となります。

 このような背景から各国は、それぞれの思惑を秘め軍事力、とりわけ海軍の艦艇増強に努めていたのです。

 一方で大戦後の戦費処理により始まった深刻な不況は各国の財政に重くのしかかり、それに厭戦気分が加わり軍縮を望む世論が高まってきました。

 このため各国では軍需費抑制のために、海軍力拡充競争制限を定める国際協定締結の機運が強まっていきます。この国際協定が1922年(大正11年)2月6日、アメリカ・イギリス・日本・フランス・イタリアの五ヶ国が締結した「ワシントン軍縮条約」です。

 この条約の第四条に「各締結国の主力艦合計代換トン数は基準排水量において、アメリカ合衆国五二五千トン、イギリス五二五千トン、フランス一七五千トン、イタリア一七五千トン、日本三一五千トンを超ゆることを得ず。」とあり、これがいわゆる各国の海軍力の比率指針「主力艦の保有量五・五・三」です。

 この結果を受けて日本海軍は主力艦隊の保有量対米6割という劣勢を克服するため、「八八艦隊」構想に代えて巡洋艦・駆逐艦・潜水艦など補助艦の補強に移行し、それぞれ艦艇の軽量重装備に変更し、それと併せて、「月月火水木金金」と形容される戦術訓練により海軍力の劣勢克服を図りました。

 このような中、昭和2年8月24日の深夜、島根県美保関沖で行われた演習は、暗夜、無灯火、高速接近、魚雷攻撃という危険極まりないものでした。

 

「​​境港市55周年史」より 

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演習の流れ

当日の天候:本州南方洋上を台風が北上中で、空には鉛色の雲が足を早めて飛び去った。海上は東よりの風が5メートル、時々7~8メートルにもなり、海面は半ば白波が立ち、東からのうねりもはっきり認められる状況であった。視界は6キロ、気温27℃、気圧は764ミリ(1.018mb)、月齢は26.4と記録されている。

甲軍

 8月24日 19:30、連合艦隊司令長官、加藤寛治大将、同参謀長、高橋三吉少将座上の旗艦、戦艦長門を含め、美保湾を抜錨、出港。

 22:00までに地蔵岬(美保関の突端)の000度15マイルの演習発動点に到着するように計画されていた。

 
乙軍

 8月24日 22:00、想定「甲艦隊は午後9時、知夫里島(隠岐)南方を東航せり」により軽巡洋艦「神通」、「那珂」が行動開始。演習海面は隠岐列島付近海面から経が岬の300度22マイルの地点(合同点)。を通る南北線に至る海域。

 23:06、「神通」から左30度に「伊勢」らしい戦艦2隻を発見との信号が乙軍全般に発された。

第26駆逐隊の行動

 「樅型」駆逐艦、「栗」、「楡(にれ)」、「栂(つが)」、「柿」の各艦は22:00、演習開始と同時に美保湾を出港。22:32、第四戦速(29ノット)に増速。

 23:09、前方に「加古」、「古鷹」を発見、同時に左前方に航行中の「神通」を認めたが、それを敵主力と誤認し、接触を図るため徐々に進路を北に転じた。

 しばらくすると、本物の敵主力(「伊勢」隊と後衛の「竜田」隊)が相次いで探照灯を点じ(砲撃を意味する)、今まで敵主力とばかり思っていた「神通」隊を照射し始めたので、戦隊司令は自隊を「神通」隊の東側に出してその前方に進出させようとしたが、丁度その時、「神通」隊が自隊の前方を左から右に横切るような態勢に変針しつつあるのを見て、取舵に変針して敵の照射を受けながら北上、23:18ごろ、横切り態勢で通過した「那珂」の後方を通過し、以後徐々に右に転じつつ北上した。

第27駆逐隊の行動

「樅型」駆逐艦、「菱(ひし)」、「蕨(わらび)」、「葦(あし)」、「菫(すみれ)」の各艦は22:00、艦隊錨地を出港、第26駆逐隊の後方400メートルを航行した。

 22:37、第4戦速(29ノット)にして指定の索敵配備点(白崎燈台)の105度23マイルに向かうため進路を037度とした。23:12頃、340度方向の友軍の1艦が発信している「伊勢型見ゆ」の発光信号を視認した。23:13、針路を050度に変針し、第6駆逐隊の左側斜め後方に出て、同駆逐隊との横距離500メートル、縦距離300メートルに占位した時、左45度、3000メートル付近に概略針路045度で敵後衛と照射砲撃を交えつつ航走中の神通隊を認めた。そのため23:14に針路を037度に変針したが、次いで、第26駆逐隊の後尾に向首するため更に10度ほど左に変針した。

​ この時、神通隊の2隻は概略針路090度で、第26、27駆逐隊の前方を横切るように航走していった。

軽巡洋艦「神通」の行動

 23:06、左30度に「伊勢」型らしい敵艦影2隻を発見後、接敵、魚雷攻撃位置につくための運動に入った。23:12頃、針路を東北東としたが、その頃敵後衛の「竜田」から、続いて敵主力の「伊勢」からも照射攻撃を受け始め、神通隊の両艦は強力な光力で目つぶし状態となりながら、敵主力に対して魚雷攻撃および照射攻撃による反撃を加えつつ航走した。

 23:13頃、敵主力との距離がほぼ正横3200メートルとなったので、一時敵砲火を避けるため面舵変針し、第2戦速(24ノット)に減速し、両舷側燈を点じて南東方向に運動した。

​ 当時、艦橋配置員すべてが敵艦隊の強力な照射で目潰しにあい、近くを航行していた加古隊、第26、27駆逐隊の存在に全く気付いていなかった。

 23:16頃、敵の後方に回り込み、後ろから攻撃する作戦を立て、再度両舷側燈を消し、第3戦速(28ノット)に増速すると共に、面舵15度で右回頭を開始した。その頃、神通の艦橋で、ふと右に顔を向けた掌信号長の目に一瞬艦影らしいものが横切った。とっさに目を凝らして確認しようとしたが、既に艦影は闇の中に消え、発見できなかった。それでも「艦影らしきもの一つ、右30度20、左に進んだ模様、艦影は『夕張』らしい」と艦長に報告した。しかし、この報告は艦長に聞こえていなかった。また、それを聞いた航海長は「今の報告が『夕張』とするとその後に駆逐艦がついているかも知れません」と進言したが、これも艦長には聞こえていなかったのである。神通艦長の水城大佐は砲術出身で、多くの砲術出身者がそうであったように耳が、特に左耳が遠かった。加えて、艦橋の窓を開放していたため、吹き込む強風に遮られ、この大事な報告を聞き逃してしまったのである。航海長は艦長がすべて了解しているものと思い込み、また何の指示もなかったので、そのまま運動を継続していった。

 23:18過ぎ、艦橋の見張員が突如、右艦首400メートル付近を左から右に高速で通過する駆逐艦らしきもの(第27駆逐隊1番艦「菱」)を発見した。この緊迫した報告を耳にした艦長はとっさに危険を感じ、「取舵一杯」を下令したが、舵効のまだあらわれないうちに、前方約300メートルをかわしていった。一瞬ホッとしたのも束の間、続いて左前方に無燈火の駆逐艦(蕨)が白波を蹴立てて真っ直ぐ突込んでくるのを認め、艦長は叫ぶように「両舷側停止、後進全速」を下令したが、既に時期は失われていたのであった。

 「神通」は徐々に左回頭を起こしながら「蕨」の艦橋付近を目がけて45度の交角で覆い被さるように突込んでいった。この衝突で、駆逐艦「蕨」は大音響と共にボイラーが爆発し、真紅の火柱が立ち昇り、艦体は「神通」の鋭利な艦首により真二つに切断され、30秒もたたない間に艦長を始め殆どの乗員を艦内に留めたまま地蔵岬灯台の039度20.75マイル、水深180メートルの海底に艦首を上にして沈没していった。(艦長以下92名行方不明、生存者22名)

軽巡洋艦「那珂」と駆逐艦「葦」の衝突

「神通」の後方600メートルを続航していた「那珂(なか)」は、23:19頃、前方に突然真紅の巨大な火柱が上がり「神通」が火炎に包まれたのを見て、艦長は瞬間、「神通」が何らかの原因で爆発を起こしたものと思い、それを避けるため直ちに「取舵一杯、両舷停止、両舷後進全速」を下令し、同時に両舷側燈を点じ、更に探照灯で「神通」の上を照射させた。

 23:20少し前、ようやく右の回頭惰力が止まったが、速力はまだ20ノットを超えていた。取舵一杯の舵効が現われ始めてきた頃、突如、右45度200メートル付近に、ほぼ直角に右から左に横切るように高速で航行中の無燈化の駆逐艦「葦」を認め、艦長が直感的に衝突の不可避を感じ、できるだけ損害を軽くするため「面舵一杯」を下令したが、舵効が現れないまま、23:20、「神通」、「蕨」の衝突位置付近で、「葦」の艦体後部を目がけて約80度の交角で突込んでいった。

 「葦」の艦尾は完全に切断され、瞬時に海没した。それは「蕨」の沈没位置の南方約100メートルの場所であった。艦体の前部はかろうじて沈没を免れたが、後甲板上で作業中の26名の乗員は艦外に投げ出され、或いは艦首の切断により無残な状態で殉職した。(27名行方不明、1名重症、後日死亡)

「海軍十大事件中、最大の犠牲者を出した『美保関沖事件』の経緯とその全貌」(美保関沖事件殉職者慰霊塔護持賛助会 発行)より

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